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事務所コラム

有島武郎記念館

2013.07.31

吉川 正也

7月の初め、ニセコにある有島武郎記念館へ行った。

初夏のニセコ連峰には、今年、雪が多かったこともあり、一部、雪が残っている。青い山と真っ白の残雪が鮮やかであった。

 

記念館は、ニセコ駅からそんなに遠くないところにあり、記念館の後ろに、残雪のある羊蹄山が良く見えた。ここは、北海道でも、有数の豪雪地帯である。狩太(かりぶと)というのが、本来の地名である。有島の父は、明治時代に、ここで農場を開拓した。開拓には、大変な苦労があったと想像できる。小作人を使って農地を開いたが、有島武郎は、その地主の子として、小作人の様子を良く知っていたと思われる。これが、有島晩年の農地解放へとつながるのだろう。

 

有島武郎が、北海道へ来て、札幌農学校の時代に、黒百合会という絵のサークルをしていたことは聞いていた。また、北大には、院生用の建物で月寒寮というのがあって、これが、武郎の建物と言われていて、今は、札幌の芸術の森にある。

 

ニセコの有島農場跡地において、有島武郎について、また、北海道と有島、冬と有島について想った。

北海道の冬の厳しい寒さ、生活を見つづけたゆえに、有島の作品は、豊かになっているのではないだろうか。雪や吹雪についての多種多彩な表現も、北海道の札幌やニセコ、岩内を知っていたからこそ、その中で選び抜かれた表現となったと思う。

有島の冬の描写は、深い自然観察によるものである。冬の北海道の様々な移り変わりについて、有島は、インクも凍るような夜更けに、一文字一文字原稿用紙を埋めていったのではないだろうか。

 

有島武郎は、ニセコの有島農場で開拓を実際に行った小作人に対し、農地を開放し、翌年には亡くなっている。有島は、白樺派として、空想的考えをする人物という印象が強い。しかし、有島武郎の本質は、文学者として、一つの作品ごとに全力を尽くし、己の芸術家としての人生に立ち向かっていった硬派な人物であったと、私には思われる。

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